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楽理一般がメイン、一応。とはいえ書いているヤツは素人ですので、誤解・勘違い・間違いも多いかと思います。色々教えてください!
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ここのブログ、ずっと更新してないですね。。。

結局、Google系への引越しを取りやめた後、ここでの更新自体が止まってしまってました。

最近ポランニー『自由の論理』を原著(英語)で読んでいて、結局自分で翻訳している状態です。その中に、科学の研究は実証的で客観的だという〈誤解〉を示す例として、動物の妊娠期間が円周率倍数と関係あるとする主張が、端的に無視された話を取り上げて、「ケプラーの時代だったら支持されたかも?」という話が出てきます。というのは、ケプラーはかつてコペルニクス的地動説を擁護して、「プラトンの立体」、つまり正多面体に内接する球と外接する球を考えて、この球(上のどこか?)が惑星の軌道だと考えた。立体は5種類ある訳ですが、なんだ? マトリョーシカ人形とかいったかな? あんな具合の入れ子構造になっているので、一番内側の立体に内接する球から、一番外側の立体に外接する球まで、都合6つの球、よって6つの惑星の軌道を想定したことになるようなのです。ところが、この辺に関するポランニーの記述が端的に食い違っていて、惑星を「7つ」としているし、これに合わせてなのか、立体も「7つ」としているものだから、こっちは「ポランニー、何言ってんだ??」状態なんですよ。

そうはいっても、オイラ自身ケプラーの本なんて当然読んだことはなくて、上にまとめたことは甥らなりにネットを検索して「どうもこういうことらしい」って見当を付けた程度なので、もしかするとそういったネット情報は、今日常識となっている惑星の話に合うように、ケプラー本来の言い回しを言い直している可能性だってあるんですよね。

ともかく、ポランニーが言いたいことは、ピタゴラス以降、世界は数と幾何学の秩序で統べられているという伝統にしたがっており、よって、正多面体(当然全ての辺の長さは等しい)や、中心からの距離が全て同じ球に何らかの〈完全性〉を見出して、それらで惑星の運行を説明しようってのは、当時としては当然の考え方だけれど、だからこそ今日的には単なる神秘主義だ、ということ。よって、動物の妊娠期間が円周率の倍数で説明できるという主張は、ケプラーころまでの常識に照らせばそれなりに説得力があったかもしれないが、今日的にはやはり単なる神秘主義、まぁ神秘主義外間では言わないとしても、「だから何?」としか思われない、という話になる。

ただ、やはりケプラーの話が気になる。今日なされている紹介とは違った説明をしているのに何か意味があるかもしれない。

というわけで、ここしばらくケプラーについて調べていたんですが、それ以前にポランニーを自分で訳すことにハマってしまって、こちらの音楽ネタを完全に忘れていたんですよね。。。

ともかく、元々はおいらのキーボードからのキー入力が不安定なのが問題なのですが、そのせいで何らかのご入力で、書きかけの記事が失われることがあったことから、Google Docsでオンラインで下書き原稿を保存することを思いついたことがきっかけで、だったらGoogle Docsでかいたものをそのままブログに公開できるなら、そちらの方が楽、というわけで、Google Docsの使いかっての確認を兼ねてポランニーの翻訳を初めてしまった。Google系ブログについては、実際テストしたものの、表計算の機能を使った図を使うと、ブログでの表示がおかしくなってしまうことから、ブログの引越しは取りやめたものの、そのまま翻訳にハマってしまってこちらが放置状態、なわけです。

ともかく、近々Google系への引越しテストを兼ねて書いた記事を、引越しを諦め単打からこちらに移し替えた上で、更新を再開します。

あいにく、元々は長谷川三千子系を読んだことから自由について調べるってところから始まっているんで、アイザイア・バーリンやルソーも読むことになりそうで、作業をどうスケジュール的に割り振るかってことも考えないとな。

ついでだ。Google Docsで作ったポランニーの翻訳の一部を、ここにコピペしたらどうなるかテストしてみよう。Google Docsのファイル→ファイルのダウンロード→HTML(zip)を選択、ダウンロードしたものをブラウザで表示した後、コピペした。



Libertyの論理(1951)
内省と返答


まえがき


「不幸なことだ。mindに隠されたideaの導きにしたがい、観察したことを建築資材として役立てようと、そのような観察を長い間非組織的に[unsystematically]1集めてから、実際これら建築資材[である観察]を技術的に並べるために多くの時間を費やす。その後、ようやく理性の意図に従って、元々のideaを明るい光の下で眺め、輪郭を一つの全体として建築学的に描くことが、初めて可能になるのだから。」
カント『純粋理性批判』2 


本書は、過去8年の間3に 書いた論文を収めたものだ。これらの論文には、私が一貫して繰り返した努力が現れている。すなわち、歴史的に困難な我々の時代がもたらした無数の問いに対する返答として、libertyの位置を明確にしようとしたのだ。時と共に、libertyの色んな側面がかわるがわる自らのもろさを露呈するに応じて、 そういう自由のもろい側面を順次検討してきたのだ。この弁証法4 は関連する広範な問題に及ぶ。そういった問題の中には、私が有効な答えを出したと信じるものもあれば、未解決なものもある5。素材を溶かして包括的システム6という鋳型に流すことも考えたが、まだ未熟だった。信念を抱く上で今日手にしているものよりマシな基盤を先に確立しなければ、包括的システム云々という試みはあり得ないのだ。

それでも、将来示される分かりやすい原則[a future coherent doctrine]に必要なものを、本書で提供したものと期待している。なぜなら、私は本書全体で、一貫した直線的な考え[consistent line of thought]を示しているからだ。本書では、以前よりも真剣に、科学において信用されている前提を取り上げた。この前提とは、次のような事実である。 すなわち、科学的知識の発見と受容は、自分が抱く信念に対するコミットメントなのだ。しかも、この信念の共有を、他の人は拒むかもしれないのだ。ならば、 科学におけるfreedomとは、信念にコミットしたコミュニティにおける自然法として現れる。他の知的libertyにもアナロジーで同じことが当てはまる。この方針に従うと、思考の力を信じ、mindにある物事7を育む義務を認める限り、思考のfreedomは一般に正当化される。このような信念と義務にひとたびコミットすると、freedomを守らなければならない。ただし、そうやってfreedomを守っているうちは、freedomを真っ先に考慮することもない8

経済的なlibertyとは、特定の生産技術を管理する上で、適切にして、かつ実際不可欠な社会的技術であると、私は見なしている。今日ではこの技術[で ある経済的なliberty]に深くコミットしている一方で、ある日代替策が登場し、この代替策の方が好ましいと強く主張することになるかもしれない。9

個人[individual]が好きなことをするfreedomは、他の者にも同様の権利があることを尊重する限りにおいて、freedomに関するこの理論における脇役を担う。私的個人主義[private individualism]は、公共的[public]libertyの柱としては、全く重要ではない。freeな社会は開かれた社会[Open Society]ではなく、固有の信念一式に対して、完全に献身する社会なのだ。10

科学及び思想一般において信用されている基盤を承認しようとする私の主張と、libertyの個人主義的教条11を拒否することの間には、繋がりがある。この教条が守られ得るとすれば、純真な自明性と揺るぎない科学的真理に支えられた、18世紀合理主義の無垢においてでしかあり得ない。現代のlibertyは、自らの信用されている基盤に対する全面的な批判に耐えなければならない。その上で、より肯定的な言葉で表現されなければならない。libertyの要求は厳密に制限されなければならないが12、同時に、この要求への新たな敵に対して、[自由の]防御を研ぎ澄まさなければならない。新たな敵は、現代ヨーロッパが穏やかだった世紀13において、libertyが初めて勝利を納めた際の敵とは比較にならないほど、手強いのだから。

私は次のように信じている。このような[自由を巡る]包括的な問いを、超然とした態度で扱う[handled with detachment]14ことなど不可能だ。むしろ、問題の処置には、問題に対する著者[すなわちポランニー]の全面的な参加[full participation]が必要なのだ。このように問題に全面的に参加することによって、著者の主題[subject]15は形成されるのである。したがって、物議を醸しそうな問題についても、自分の考えを示しておいた。[I have included therefore some addresses delivered on controversial occasions.]

  1. 手当たり次第?
  2. 当然『純粋理性批判』の原著はドイツ語である。引用に関する原註がないことから、誰かが英訳したものを引用したのではなく、ポランニーが自ら英訳した上で引用したものと思われる。
  3. 1944-1951年。本書の刊行は1951年。
  4. 自由が批判されては擁護して、の繰り返しのこと?
  5. has ... proved in battle. 「交戦中と分かる」、つまり、自由を巡る問題について、自分の示した答えがまだ不十分で、論争の余地があるものも残っている、ということだろう。
  6. 暗黙知や個人的知識といった概念のことか?
  7. 要するに「着想、アイディア」
  8. つまり、freedomが守られず、脅かされると初めて、freedomを真っ先に考える羽目になる。
  9. な ぜこの様なパラグラフが挿入されたのか、一見不可解だが、次のような意図がポランニーにはあったものと推察する。東西対立を踏まえると、自由主義と資本主 義は親和的であり、この組み合わせが社会主義・計画経済と対立した構造となる。よって、自由を擁護することは、自由主義経済・資本主義経済の肯定と安易に 結びつきうる。しかし、ポランニーはそのような自由主義・資本主義経済におけるlibertyが、ある日別な代替策に取って代わる可能性を認めることで、 今日・目下のところは経済的なlibertyは必要だしコミットしているにしても、固執している訳ではない旨留保を加えているものと思われる。
  10. 「開かれた社会」はポパーに由来するものだろうが、あ いにく訳者はポピーに疎い。少なくともポランニーは、ここで私的個人主義における自由と、ポランニーが擁護したい自由とを分別した上で、ポパーが言う開か れた社会に置いて擁護される自由が、ポランニーが「脇役」とする私的個人主義におけ自由であると主張することで、ポパーを積極的に批判する訳ではないにし ても、ポパーの議論は脇役に関するものでしかないと、少なくとも軽視している可能性は高いと思われる。
  11. 恐らくJ.S.ミル『自由論』を踏まえ、他の人に実害が及ばぬ限り、個人の自由は制約を受けないという考えを指しており、ポランニーがいう「私的個人主義」と内実は変わらないものと思われる。
  12. 変な話、「奴隷を好きにする自由」のようなものが登場するのは困る、というようなことだろう。
  13. 「現 代ヨーロッパが穏やかだった世紀」とは、続く「libertyが初めて勝利を納めた」とあることから、いわゆる市民革命が見られた18世紀前後を指すと思 われる。革命に伴う流血などを考えると「穏やかだった世紀」という表現は奇異だが、ポランニーの関心は「自由」にあることから、革命を遂行できるほど自由 への支持が高かった、自由への反対・抵抗が少なかったことを指して「穏やか」と言っているものと思われる。
  14. 「超然とした態度」と訳したdetachmentは『暗黙知の次元』などでもポランニーが多用する語で、客観性に含意されるような、ポランニーが言う人格personの立場を離れた態度、とでも言うような意味合い。
  15. 「主観」ではないと思われる。

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べぇす
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男性
趣味:
音楽(素人レベル)
自己紹介:
一応趣味でベースを弾く。

……けど、だれだっていいじゃん、オイラなんか!


◎音楽関係のプロフィール
・ベース歴: 15年以上
・譜面の読み書き: 不自由
・初見演奏: 無理
・利用譜面エディタ: Allegro 2007→Finale 2010
・利用DTMソフト: Music Creator 2

※楽理関係を扱ったことを書いていますが、上記のように音楽については素人です。書かれている内容を鵜呑みにされないよう、ご注意ください。
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