日本では和歌山カレー事件辺りを契機に、それまでは死刑廃止論や各種えん罪への対処をこそが問題とされていた風潮が一転、犯罪者の人権を擁護するばかりで、被害者やその家族の感情はどうするんだ? とする世論が高まります。そこにオウムによる地下鉄サリン事件が決定的なとどめを刺しました。更に、サカキバラ事件(漢字忘れた)を通じて少年法適用年齢が引き下げられました。最近では危険運転致死傷罪、だっけ? これでもって、犯罪者に対して厳罰を下すことが当然と見なす風潮に、全く疑問の余地を残さないほどとなりました。
『コブラ』は、そう言う現在の日本の世論にぴったりはまった映画です。1986年作品が、2008年現在の日本の世情にぴったりなんですよ。つまり、日本はアメリカに20年ほど遅れていると言ってもいい訳です、この意味では。
オウムが描いたあの世というか、天国というか、そう言う世界がどういうものなのかはよく分かりません。教祖が最終解脱者と位置づけられていたし、バジラヤーナとかいうのは、小乗、大乗の後の段階に位置づけられる金剛乗を指すようですし、一応は仏教ベースってことになるんでしょう。その詳細はどうあれ、少なくともこの世的には、教組を中心とした神聖政体を目指していたのでしょうから、何らかの形で現行の日本国憲法下にある社会秩序を転換したかったのでしょう。
サカキバラ事件では、どこまで本気だったのかは分かりませんが、何らかの魔術めいた儀式で祖母を生き返らせようとしたとか何とか??
いずれにしても、現状を否定しようとする動きだったわけです。和歌山カレー事件はよく分かりませんが。。。
『コブラ』では、犯人側の集団のキーワードに「新世界」ってのがあります。これが具体的に何なのか、明確なイデオロギーなり何なりがあったのかどうかは定かではありません。制作サイドもそこまでは考えていなかったのかもしれません。だとしても、それで十分と思われるだけ、そういう世の中だったとも言えるわけです。つまり、具体的な新世界のイメージが明確にあったのかどうかは別にしても、現状に対する不満があり、よってそれを打破するために、暴力が必要であるとの、はた迷惑と言えばそれまでながら、現実逃避と暴力正当化が、それなりにリアルだったと言うことになります。だからこそ、犯罪者集団の目的は、具体的な利益(現金など)を求めたものというよりは、社会不安を煽ることにあるものと設定されたのでしょう。力が弱い象徴とも言えそうな女性が連続殺人の対象となったのもその為でしょう。子供が対象だと猟奇的な意味合いが強くなってくるので、避けたものと思います。
そして、そのような犯罪者集団に対して、嫌みたっぷりながらまっとうなことをいうマスコミと刑事は、主人公コブラに言わせれば、恐らく現実を知らずにきれい事を並べているだけの奴らってことになるのでしょう。逮捕しても裁判所が釈放を命じるので、犯罪者が結局は世の中に戻ってきてしまうことを、コブラは嘆いてすら見せます。
ここ数年の間でも、現実のアメリカ社会では「性犯罪者は再犯率が高い」なる話を根拠に、釈放された人々がどこに住んでいるのかについてネットで情報を流す、なんてことも話題になりました。犯罪者に対する徹底した排撃、攻撃の態度は、『コブラ』の後もアメリカでは強化され続けてきたと言っても良いのでしょう。
他方で、日本では、なんだっけ? 『それでも僕はやっていない』でしたっけ? えん罪の問題は全くなくなっていないのです。
もちろん被害者感情を無視するわけにはいかないでしょうが、日本ではえん罪の問題もあるわけです。
また、『コブラ』では、詳細不明な「新世界」を目指して軍隊並みに統率・武装された集団が形成されていました。日本ではどうでしょう? そこまではいっていなくても、ネットを通じた個人取引で拳銃を手に入れた人の話だとか、正規のライセンスを取得して猟銃を持っている人が発砲事件を起こすとか、全く異なる様相を示す形で、犯罪の凶悪化が起こっています。
『コブラ』を単なる懐かしい刑事物アクション娯楽とだけ受け止めて、何の疑問もなく楽しむだけでは、この辺りのバランス感覚が麻痺してしまうかも? もちろん映画ですから楽しめばよいのですが、しかし、「悪いことをやったんだから厳罰で対処する」ってことで、解決するのでしょうか? もちろん、現に起こっている犯罪への対処が全く成されなければ困ります。他方で、そのような形で犯罪に手を染める人たちが生まれてくる社会学的な要因の解明と除去こそが、より重要なのでは??
だいたい、再犯率の問題は、出所した人たちが結局は社会に溶け込めず、生きるためにまた犯罪に手を出さざるを得ないって部分もあるわけでしょう?? そう言う人たちが連帯して組織を形成したら、『コブラ』の犯人グループのようなものが組織されたって不思議はない。もちろん、どうして警察内部にスパイが?? という疑問が『コブラ』には残りますけどね。
ミステリーによく登場する設定に「交換殺人」がありますが、日本の場合、『コブラ』的犯罪集団(恐らくヤクザやマフィアとも異質)が形成されないとしても、今の世の中ならネット(PC、携帯問わず)を通じてそう言う人たちが緩やかに情報交換して、それこそ交換殺人みたいなことをし始めたら、どうなりますか? 起こった犯罪を厳罰で取り締まるってのは、結局は後手の対応でしかないのです。しかも、犯人逮捕に時間がかかれば、世論は「警察は何をやってる??」との批判で盛り上がります。えん罪問題も増えることになるでしょう。
そう言う意味では、今『コブラ』を見返すなら、決して単なるエンターテイメントでは済まないだけの深読みが可能なはずです。そのくらい示唆に富む内容だと思います。